回廊ときどき辺境の地 島原半島

われわれ日本人は、関東から中部地方を中心にして日本を描いた地図に馴らされている(視座は、中心と辺境を見る者に刷り込む)。対して、このレジュメは、南の方角からの文物の流入という視点で日本列島を眺める。その視点のもとでは、島原半島と有明海は南西に開かれた門であり東シナ海からの文物の回廊である。
旧人が地球に拡散してから50万年、旧人と現生人類が混交し、現在のヒト類がユーラシア大陸に拡散して1万5千年、島原半島に棲みついて1万年余、米作が始まって2300年、いま日本と呼ばれているクニの歴史書が書かれて1300年にすぎない。1万年を振り返ると、島原半島が回廊であった期間は長い。

先史の事項は全ていくつかの学問領域による仮説にすぎないし、書き手の妄想も一部含むけれど、以下「らしい」「可能性がある」とは断らずに記する。2023-07-20 児玉庄司

有明海も筑紫平野も大陸との間の広大な干潟の一部だった

日本列島の広い平野は、川が海にそそぐ扇状地が元になっているところが多い。関東平野も大阪平野も濃尾平野も複数の扇状地の集合体で完新世(1万年前)にできたもの。
他方、九州北部、福岡・筑紫平野と有明海は事情が異なる。10万年単位の昔、氷河期には東シナ海・対馬海峡・黄海とともに広大な干潟だった(海溝図の薄い水色部分)。1万年前、最後の氷河期が終わり、温暖化により氷河が解けて水位が100m単位で上昇。これによって一帯は一旦は海に没した。福岡・筑紫平野と熊本平野は阿蘇・雲仙の噴火物の堆積と、筑紫川ほかの山々の運ぶ岩砂によって再び陸化。有明海は陸化しなかったものの水深は浅い。

九州北部起伏図

海溝図

島原半島は新旧3回の造山活動で形成、未だくすぶっている

島原半島の起伏図をみるとわかるように、古い順に次の4つの部分からなっている。この家は①と②の境目にある。

島原半島起伏図

島原半島は各地で地下水や温泉が湧く。温泉のメッカである小浜も雲仙も③地域にある。④地域も地下水は豊富だが、硬水(カルシウムとマグネシウムの成分比が高い)で、尿結石が風土病。②地域から出る温泉は湯量も少なく湯温も低い。地下水は軟水。①地域は地下水も温泉も湧かない。

農作の様態も地域により異なる。①地域では赤土の丘を開拓した水不要のジャガイモ畑が広がる(日本有数の産地)。②の南域は谷筋ごとに川が流れており、川沿いに棚田とブロッコリ畑(日本有数の産地)が広がる。②の北域は谷筋が広めで、畑や畜産が中心。③の平地は海岸沿いにごく狭く、農業に向かない。

④近世以降の雲仙の噴火活動としては、次のものが有名。

普賢岳からの火砕流

歩くヒト族が島原半島にやって来た

さて、1万5千年前は、ヒト類の地球全体への拡散を画する時代だった。ヒト類は現在のエジプト、アラビア半島、イラク、イランの辺りで温暖期を迎えた。西方、アルプスの氷河が途切れた跡を越えてイベリア半島へ。中央アジアのステップ平原から東ヨーロッパ平原へ、西シベリア平原を経て東アジアへ、また、キルギスの山々の間を東進して東アジアへ。そしてまたインド洋に沿って東進した。いくつかの集団は畑作の技術を持ち、他のいくつかの集団は動物に乗って移動し、土器を焼くことのできる集団もあった。「産めよ増えよ地に満ちよ」拡散を促した動機は何だったのだろう。

ユーラシア各地への拡散

干潟が広がる島原に最初にたどり着いたのは採取生活をする歩くヒト族(緑矢印)だった。歩くヒト族は海山からの採取生活なので大きな集落を作らず、各地に分散しながら拡大していった。東アジアの海岸線近くに沿って北上すれば、広大な干潟(生き物=食べ物の宝庫)の中に硬い地面があちこちに伸びていた、現在の九州西岸に到達する。人口が土地の生産力を超えれば、また北を目指していった。こうして現在の日本を超え、まだ陸つながりであったベーリング海を渡って北アメリカ大陸に到達した。
ちょうどその頃、海面上昇によって干潟は陸化。列島として孤立し、各地に棲みついた歩くヒトは、取り残されてしまった。日本国の教科書は、日本列島に取り残された歩くヒト族を縄文人と呼ぶ。

海の民が太平洋の暖流の回流に沿って各地に居留地を設けた

3千年前、オーストロネシア語を話すヒト族が、揚子江源流域からチベットを超えてインドシナ半島を南下し、先住していた歩くヒト族の分派を駆逐して北太平洋の西域の島々に拡散した。
多能なヒトたちで、アウトリガーカヌーを操って連なる島の間の外洋を航海することができた。ニューギニアから北太平洋の暖流に乗って現在のフィリピン、台湾から南西諸島の島伝いに、済州島から九州西岸にたどり着く、太平洋側をさらに房総半島まで北上、そこから海流を避けて南下し、現在の東京都の島嶼、マリアナ諸島、ミクロネシアの島々を経れば、ニューギニアに戻ることができる。
このヒト族はまた、揚子江源流から持ってきたコメ(長米。熱帯ジャポニカ)の栽培技術を移住先の環境に適応させ、焼き畑で米作することで、島嶼での長米栽培を可能にした。

北大西洋の暖流回遊と海の民

日本には、少なくとも奄美大島、種子島、有明海周辺、房総半島先端部などに居留地を持っていた。標高2~3百mの海を見下ろせる台地を好み、焼き畑での長米栽培に失敗した年は沢の川辺に降りて水田耕作した。どちらにせよ農法的には洗練されておらず収量が限られるので、居留地域の拡大には熱心ではなく、先住民である歩くヒト族ともあまり混交しなかった。そして、島嶼間の航海が廃れるとともに多くの居留地は消滅していった。島原半島には、原山石墓群のほか、礫石原、山の寺遺跡など、第二次世界大戦後の開墾時に発見された居留地跡がいくつか残っている。

2300年前 越人が渡ってきた

同じ頃、中国の広大な平野域には、北・西・南からやってきた様々なヒト族がいた。黄河流域では畑作、揚子江流域の湿地ではコメ(短米。温帯ジャポニカ)の生産が盛んになり、定住人口が増大、クニ(対内的な権力構造を持ち、外部への膨張を目指す組織)が形作られていく。そんなヒト族の一つ、揚子江下流域から海南島にいた越人は、多くの小国に分かれていた(百越)。筏の上に柱と屋根を葺いた家船に一族で生活し、河川デルタ地帯の水田で短米を栽培しながら、川や海で採集もして暮らしていた。春秋時代に小国の一つは越を名乗り、同族の隣国呉と争いが絶えなかった(呉越同舟の故事あり)、戦国時代の中頃(紀元前300年頃)に強国・楚が北から百越を圧する。越人は、被支配を受け入れるか押し出されて移住していくしかなかった。移住先は、山奥か、南下してインドシナ半島へ向かうか、台湾を経て北に向かうか。
当時、台湾には海の民がいた。台湾に逃げた越人は家船を捨て、海の民のアウトリガーカヌーに便乗して南西諸島伝いに北上した。こうして、済州島から九州西岸にかけての各地に漂着すると、海の民が住まない海沿いの低地、奥まった平野、あるいは、大河を遡上した地に居留地を作った。済州島は耕作に不向きなため、さらに朝鮮半島南端の前羅南道へ、また、福岡平野へと向かい植民した。他方、九州西岸に達した越人にとって、有明海は風よけの地であり、川水の潤沢な島原の②地域や熊本平野川は定住には好適だった。対馬海峡側から福岡平野に植民した越人と、有明海側から上陸して筑紫平野や熊本平野に植民した越人は、かつての百越のように、これら平野に多くのクニを建てて相争った。
基本的には居住地を分けていた越人と海の民だが、この九州北部の地で、越人の栽培する短米(温帯ジャポニカ)と、海の民の長米(熱帯ジャポニカ)は自然交雑し、寒冷地に強い品種が生まれた。越人の一部は、再び家船を造り、さらに現在の熊野や登呂へと沿岸伝いに日本列島を北上、2~3百年のうちに青森にまで達した。北地での米作が可能だったのは、彼らの持参したモミのなかに、交雑品種が含まれていたためだった。
中国の史書は朝鮮半島南部から日本列島に植民した越人を倭人と総称し、日本国の教科書は日本列島に植民した越人を弥生人と呼んでいる。

百越から台湾を経て北東へ

1700年前 朝鮮半島を経由して騎馬族が侵入

ユーラシア大陸をシベリア経由で横断して現在の中国に入ったヒト族(上図「ユーラシア各地への拡散」の紫の矢印)には、馬に乗る機動力のあるものが多かった。そのうちの一つが漢族また高句麗族(これも紫矢印か)に追われて朝鮮半島に入り、百済の国を建てたのは紀元300年頃。百済王族の支隊は、さらに朝鮮半島の南から渡航し、隠岐、対馬を経て、対岸の九州北部に辿りつく。東遷後に書かれた古事記では「因幡」(いなば=出雲)の白兎となっているが、この渡航を手助けしたのは、前羅南道に定住していた越人であった。この百済の支隊は、騎馬を利して福岡・筑紫平野で争っていた越人の国々を配下に組み込み、中国の王朝にも名が知られていた邪馬台国の名を継承してヤマト国を名乗るようになった。
ヤマト国の支配階級である騎馬族は、母国の百済を軍事的に支援し、また百済からの文物を受け入れてきた。その百済は、紀元660年に圧倒的な唐の軍勢に敗れて滅亡。ヤマト国は、百済復興を掲げて朝鮮半島に出兵したが、大敗すると唐の侵略を恐れ、遠ざかるために東遷。福岡・筑紫平野を捨てて、瀬戸内海の最奥、大阪平野に上陸して外港とし、さらに生駒山を超えて、奈良盆地を拠点とした。この時から千年余、島原半島はヤマト国の辺境となった。
ここで、ユーラシア大陸の西の端に話をいったん移す。

越人と騎馬民族

紀元1500年代 西欧の大航海時代に島原半島は回廊その後殺りくの地となった

帝政ローマはキリスト教を国教に定めた後、紀元400年頃東西に分裂。イタリア以西の欧州と北アフリカ西部を版図とした西ローマ帝国は紀元480年に滅び、イベリア半島と北アフリカはイスラム教徒に奪われた。しかし、ローマカトリック教会はローマ法を継承した教会法体系と徴税権を背景に、依然蛮族の地であった西欧に布教を進め、力を持ち続けた。同じころ、フランク王国が興き、キリスト教を受容して領土を拡大、イスラム教徒の占領地以外の西ローマ帝国版図を回復してフランク・ローマ帝国を名乗る。ローマの公用語ラテン語も各地で使われ俗語化していく。こうして、ローマ教会と世俗王国、聖俗権力の二重支配という中世西欧特有の統治の形ができた。

紀元1500年代は西欧の画期だった。イベリア半島をイスラム教徒から奪還し、地中海から大西洋へ乗り出す大航海時代がはじまる。イスラム諸国の進んだ技術を取り容れて、イベリア半島を中心に、航海術、造船、大砲や銃の冶金といった技術が発展する。聖職者に秘匿されていた聖書とラテン語書物が各地で俗語に翻訳され、発明された活版印刷機で印刷されて拡散、世俗化していたローマ教会の権威がゆらぐ。英国とオランダは宗教から政治性を排除し、ローマ教会の統治システムを政治的な統治システムに置き換える(ロックの社会契約論)。これに対して、ポルトガル、スペインやフランスといったカトリック諸国では、イエズス会、フランチェスコ会など原理主義的な修道会が興きる。特にイエズス会は軍隊ばりの規律をもった、布教、教育、医療の社会活動体として、ポルトガル王国の東方拡大と深く結びついた。アジアではインドのゴア、中国のマカオを拠点とし、イエズス会が現地民の馴致を、ポルトガル王国直営の東インド会社が貿易を担当する互恵関係を結んでいた。聖俗二重支配は精神支配と貿易支配に置換され、植民地経営の効果的な仕組みとなった。

ポルトガル船来航

この紀元1500年代、日本は室町幕府による諸国統治が機能せず、群雄割拠、下克上の戦国時代にあった。九州の諸侯のなかで、肥前地方(現在の佐賀・長崎県)で姻戚関係にあった有馬と大村、豊後地方(現在の大分県)の大友は、マカオから来航したポルトガル船を喜んで受け入れ、領主自らカトリックに改宗しイエズス会によるカトリック布教や教育を認める代わりに、武器文物を入手し、また、輸出入貿易の利得を得ようとした。

肥後地方の諸侯たち

紀元1600年代になって各地の諸侯を藩に封じた強力な統治者 江戸幕府は、ポルトガル・スペイン二重支配の聖と俗は切り離せないことを見定めると、各藩や民を江戸幕府が精神支配する妨げになるキリスト教の禁教化を強力に推し進めた。また、貿易相手を政教分離国のオランダに切り替えた。イエズス会の布教規律に「撤退」「棄教」という選択肢はなく、多数の宣教師や日本人教徒が殉教した。
島原半島を拠点としていた領主有馬は棄教し、他国に転封され、多くの臣下は帰農した。有明海の対岸、天草の領主寺沢と、有馬に代わって島原半島に封じられた領主松倉の徹底的な領民収奪がきっかけとなって、島原と天草にまたがる大規模は一揆が勃発。2か月後には、島原半島南部(現在の南島原市全域と島原市南部)の農民、元有馬臣下、天草からの転戦者、各地から集まった浪人、合わせて3万7千人が島原半島の原城に籠城。江戸幕府の家老が率いた各藩の連合軍13万人がこれに対峙した。原城が2か月後に落城すると、潜入スパイを除く籠城者全員が斬殺された。キリシタン一揆と言われるが、籠城者の大半はキリスト教徒ではなかった。日本国内での有史以来のジェノサイドとして、第二次世界大戦末期の広島原爆14万人、東京大空襲11万人、長崎原爆7万人に次ぐ規模。
一揆後、島原半島南部にほとんど人はいなくなった。新たな領主として、親藩松平が島原半島と開港地長崎の目付け役として封じられ、江戸幕府は西国各藩に命じて農工商身分の民(多くは家産をもたない者)を集団移住させた。昭和の初めまで、島原半島南部の山間部では、集落ごとに言葉が異なっていた。分断は江戸時代の統治の基本策。島原半島は再び辺境の地となった。

江戸時代末期から明治期 辺境に自治精神と技術あり

紀元1800年代に入ると、九州各地に突如として大小多くの石橋が出現する。街道の遠回りを解消するために、地元の志ある豪商・豪農が家産を傾け、住民が労力を提供し、何年もかけて築かれたものが多い。橋は分断政策を脅かすものであるため、藩の許可が必要だった。藩は財政難を理由に、許可はしても援助はしなかった。

その石橋を築く技術は、長崎と熊本から来ている。熊本には築城技術の蓄積があり、石壁を専門とする石工の集団があった。他方、長崎には貿易相手国である中国やオランダが築いた石橋がいくつもある。長崎奉行所に奉職していたひとりの武士が、石橋が落ちない理由は円周率にあると知り、禁制であったその計算方法を学ぶと、奉行所を追われて現在の熊本県八代市に隠れた。八代海の干拓事業に従事していた築壁石工と技術交流しながら石橋の研究に没頭。そこから、肥後種山の石工集団が育った。この集団は、九州各地で石橋築造の請負や指導をしただけでなく、明治維新後に招聘されて、東京市内に万世橋をはじめいくつか石橋を築いたが、紀元1800年代末に後継が途絶えた。関東大震災を経た東京には現存しないが、九州にはまだ残存している。北有馬町内にも10か所ほど、由来はわからないが明治期の小さな石橋が残っている。鉄やコンクリート製の橋梁と比べて、石橋は原料の石材を地元で調達できる強みを持ち、封建時代や近代産業革命前夜の日本に向いていたといえよう。

面無橋

第二次世界大戦前の島原半島はリゾート地 かつ 船員の町 かつ 出稼ぎ者の多い貧窮農作地域だった

明治後期から昭和の初め、島原半島は海外と結びついた三種類の人たちが、互いに関係を持たず並存している土地だった。

紀元1800年代末の国土地理院地図

以上

参考書籍 
異人その他, 岡正雄(人類学), 1979/1994
日本文化の形成, 宮本常一(民俗学), 1981
稲のアジア史第一巻 アジア稲作文化の生態基盤, 高谷好一(生態学), 1987
稲のきた道, 佐藤洋一郎,(遺伝学) 1992
一万年の旅路 ネイティヴ・アメリカンの口承史, P.アンダーウッド, 1998
交雑する人類 古代DNAが解き明かす新サピエンス史, D.ライク, 2018

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